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2児の母さゆです。働き方改革・子育て・家事...私の話を聞いてもらえますか!?

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人間関係の悩みを抱えたら? もう他人には安易に話さないようにしてみる

本日はVoicyで聞いた放送を受けて、考えたことをまとめてみました。

voicy.jp

タイトルを見た瞬間になんかイラっとして「そんなんじゃないし!」と思って気になってしょうがなくて聴いた放送です。Voicyは特定の方をフォローしていますが、気ままにたまたま見つけた番組を聞くことも多いです。

そしてこのようになんかムッと感じた放送こそ、考えさせられることが大いなと感じます。

人間関係の悩みは、他人に安易に話すのは一旦やめてみよう

親しい人に悩みをうちあけて何が悪い?と感じましたが、そういえば私も最近開けっぴろげに誰かに話すことを辞めていたなと思い返しました。

人間関係の悩みを話しているときに現れ始めた違和感

これまで人間関係での悩みがあったときに、私は親しい人にすぐにジャンジャン話してきました。

しかし最近「これって、なんか違うな」と感じるようになり、あまり盛んに話さないように無意識に意識していたなと思います。

それは、絶対他人に悩みを打ち明けないぞ!といった固い決意ではなく、なんかあまりいい気持ちがしないから、試しになるべくあまりぐちぐち言わないでおこ。くらいの軽いものです。

ここで説明しておきたいことが、今回話しているのはあくまで「人間関係の」悩みであること。それ以外の、例えばどうやったらブログをうまく書けるのだ!?電動自転車どれ買おうか悩むー。などの、他人が関係しない悩みはどんどん人に話して壁打ちさせてもらった方がいいと思います。

人間関係の悩みで気を付けたいこととして、絶対的な前提があって「自分と関わっている他人を変えることはできない」ということです。シンプルに考えて、自分の力で変えられることについて悩むのは生産的、変えられないことについて悩むのは非生産的です。

さて、そんな人間関係の悩みを他人に打ち明けているときにぼんやりと持っていた違和感をなんとか説明してみると、以下のようなものです。

  1. 私が「あいつのこういうところで困っている」と相談した相手が「あいつ」をよく知っている方だとしたら、その方にある「あいつ」への印象を大きく歪めてしまうだろうという罪悪感。そんな人だったんだ…などといった感じ。
  2. 人の記憶って超曖昧、だから自分の記憶は本当にあてにならないという事実。その時の会話のやり取りを録音していたとして、そこだけ何も先入観がない人に聞いてもらったら、全然違う印象を持たれても何も不思議ではない。
  3. 誰か特定の人に対して困っている...と感じたときに、多くの場合に、その特定の人には全然関係ない、私自身のうまくいっていないことへの苛立ちや、これまでの生い立ちからくる認知の歪みのようなものが必ず潜んでいて、ほとんどがただのこじつけによる八つ当たり・憂さ晴らしに過ぎないという気付き。
  4. 正義を振り翳して誰かの批判をしたその瞬間から、自分を追い詰めることになる。批判した内容を自分がやらかしてしまった時、話を聞いてくれた方どのように取り繕うつもりか。

人間関係の悩みを話し始めると、止まらなくなるのはなぜか

上に挙げた4つの違和感を明確に認知する前は、本能のまま人間関係の悩み(つまりは愚痴)を親しい人に相談してきました。

なんでですかね、そういう時って脳内で何か快楽物質が出ているかのように、そういえばこんなこともあった、あんなこともあった、本当にあいつはとんでもないやつだ。と、どんどん話がエスカレートしていきます。

特にLINEの方が直接話すよりもエスカレートしやすいです。

直接の会話だと、例えばランチの時間だけとか一緒に歩いているときだけなど、ある程度時間に限りがあるので話を切り上げざるを得ません。しかしLINEだと際限無く広がっていってしまいます。

さて、紹介したVoicyでは人間関係の悩みを他人に話す人は「慰められたいだけ」と表現されていましたが、まさに図星、私が愚痴る場合の欲求を具体的に挙げてみると

  • あいつの振る舞いから受けた嫌な思いに耐えた自分は偉い、正しいと、誰かに太鼓判を押して労って欲しい
  • 私が「あいつ変なやつだな」と思う感覚を肯定して欲しい
  • 話を聞いてくれている人に味方になって欲しい。その一方であいつは悪者、という立ち位置になって欲しい

と言ったところでしょうか。

そりゃあ、嫌な思いをした後によしよしと認めてもらえたらそれ以上甘美なことってありませんよね。

でもその甘美さと引き換えに、「あいつ」に関する話がエスカレートすることによって、多分現実からどんどん認知が歪んでいって無駄に現実を悲観することになります。

それでも甘えて生きるか、それとも踏ん張って現実を見て生きるか。

ただし、愚痴などでなんとかガス抜きをしてでも現実に耐え続けなければならない状況は確かにあると感じています。人間が集まれば何かが起きますし、何も問題も不満もありません、というのはあり得ないかなと思います。

しかしその中でも、「いやこんな部分的なことは大したことないな」と流せるか、「こんな事があった!きっと次はこうなる!一事が万事だ!」と大袈裟に捉えて他人も巻き込んで「あいつ」のことを裏でけちょんけちょんに貶すか。どっちを自分が選びたいか!?と思います。

かっこいい生き方はどちらか?明白ですよね。

価値観の似た者同士で愚痴るとものすごくエスカレートする

特に、価値観の似ている者同士、特に「こういう人の振る舞いは許せない、嫌だ」という感覚が似た者同士で話している時って本当に快感です。

でもだからこそ注意です。

話していると相手が自分の意見をどんどん肯定してくれるから、自分の中にある「ひょっとしてこうなんじゃないか?」という一方的な憶測、幻想が、何の裏付けもなく「そうに違いない」という確信にどんどん変わっていきます。

人間の思考って本当に自分が果たしたい目的に向かっているなと感じていて、「あいつ」がムカつくからなんとかして悪者にしてやりたい、そのための材料はないかな?あ!これもあった、あれもだ、だからあいつはやばいやつだ!と結論づける。そのかき集めた「証拠」を一つ一つ見てみると、実は偶然の産物だったり、勘違いだったり、ぜんぜん大したことがないということがほとんどです。

最近とある人気YouTubeライブをよく見ているのですが、「こんな被害に遭いました」というリスナーから話をまず聞いてみると「えーなんてひどい!かわいそう」と感じられるのですが、じゃあいざその証拠を見せてください。となると「...ん?これってあなたの思い込みだったり、あなたの行動に問題あるよね?」というパターンが非常に多かったりして、とても興味深いです。

家庭環境でも注意したい

私は、誰かの悪口を言うことが自然なことであると、絶対に自分の子供には思ってほしくないです。

子供の前では絶対に愚痴りません。愚痴るとしたら夫と2人の時だけです。

私が育った家庭環境は、父も母もきょうだいも全員が他人を馬鹿にして家の中でよその人の悪口ばかり言っている家庭でした。私が幼少の頃からです。

近所の人の悪口から始まり、母と2人になれば父やきょうだいの悪口。

更に新卒で飛び込んだ職場もそういう文化の延長だったので、思考の癖にどんどん磨きがかかってしまいました!!

だからなのか、他人に対してまず批判的な目で見る癖がなかなか抜けずにしんどかったです。でも、「こういうのはしんどい、やめたい」と自覚できたことを大切にしたいと感じ生きてきて、ちょっとなんとかなってきたなと思えています。

じゃあ、人間関係の悩みをどう切り抜けるか

誰かに話さずに解決するにはどうしたらいいか。先に紹介したVoicyにもヒントがありました。

私が思うのは、本当に相手の行動に困っているのであれば、会社ならば上司に相談して仕組みを変えてもらうなど問題解決に動くのがいいと思います。とはいえ、そのようにうまくいかないから愚痴りたくなるのだろうとは思います。しかし職場の他人がどうあれ、自分がやるべきことをやるだけだと思います。仕事はお金をもらうためにやること。

もし本当にひどい嫌がらせの場合はまず客観的、数値的証拠を集めて相談するといいのかなと思います。このようなことが何月何日何時にあった。それによってこのような弊害が生じた。という事実が複数集まれば、職場も動かざるを得ないでしょう。そして証拠を集め始めた途端に自分の勘違いだったわ、と気付けることもあると思います。

逆に、何か言いがかりをつけられたときには証拠の提示を促してもいいと思います。私も最近、印象だけで批判されたことがあり、「あなたのせいでこのような事態になることはザラだ」と言われたので「ザラですか。私に記憶がないのですが、具体的に何回ありましたか?いつ頃のことですか?」と聞いてみたら「あれ?意外と一度もないや。ごめんなさい」となったことが実際にありました。

あとがき

そういえばなんですが、今の職場のすごく嫌な点として、社内の人の噂話や、ほとんど絡んだことのない人について「こういう人だ、ああいう人だ」と決めつけるような会話を本人がいないところですることが多く、ちょっとうんざりします。全然興味がないのでそのような話にみんな目を輝かせていると、そっとその場を離れたり話題を変えたりなどしています。

みんなそういう話をしたいほど普段抑圧されているのかな。

とりあえず私は仲間入りしたくないなと思うのです。