JTC時短営業職共働き都内在住二児の母、岩戸さゆです。
下の子がたびたび物を投げることもあり、家の中が常に片付かないのでどうしようかと頭を悩ませております。
今日は、私が今まさに経験している価値観の変化を書きたいと思います。
求められない手出し口出しは残酷な優しさ
少し前、ほんの5年前まで
- 他人のために先回りしてあれこれ手配する
- 気を利かせてあれこれ動く
ことが、人として素晴らしいことだと信じて疑っていませんでした。でもそれって違うんだなと、特に子供や夫との関わりで感じることが多くあり、それに囚われないようにしようと最近では思います。
これについて頭の中でさまざまな要素が絡み合っており、文章ですんなり表現できるか自信がないのですが、少しずつでも書いてみたいと思います。
職場復帰時に同僚からあれこれ気を遣われて、疲れてしまったこと
産休育休をあけての職場復帰となると、今まで四六時中抱っこしていた子供を保育園に預け、
「子供抱っこしてないで私一人で歩いてる。体の重心どこかな?」
「あれ?オムツとか持たなくていいのか。自分一人の持ち物って少ないな」
などと、身軽な体に違和感を覚えながらフラフラと出勤してたよなぁなんて思い出します。
通常の業務をこなすことに慣れるのも精一杯。どこに何があったっけ?と一つ一つ思い出しながらなんとか育児と両立する日々でした。
そんな時、同僚Aさんが私にピッタリくっついてあれこれ助けてくれたことがありました。
仕事に必要な道具をハイ!ハイ!と、まるで私がオペするお医者さんかのように用意周到にサポートしてくれ、フラフラの私にはとてもありがたい!と最初は思いました。
しかしそれがあまりに長く続き、だんだん疲れて「もう放っておいてほしい」と思うようになってしまいました。
今後一人でやらなければならない。手助けはそれを阻害する残酷な優しさ
フラフラの私に色々やってくださったAさんには感謝、、なのかもしれませんが
私は一人の社員として、大人として、社会人として、一刻も早く育児と仕事の両立に慣れることが何よりも大事な時期だったのです。
「あれはどこにあったかな?」と探すこと。探すのに時間がかかるのであれば、しかるべき人に相談すること。そのように少し手探りになったとしても、限られた時間の中でいかに通常運転をしていくか、試行錯誤をしていかなければなりません。
Aさんの手取り足取り手厚い介助があって、その日が終わった。それではダメなのです。
私が困ったそぶりをしたり、何か探している雰囲気を感じるとすっ飛んで来るAさんに、気持ちはありがたいけれど自分でできそうだから大丈夫ですよ、助けてほしい時には声をかけるので、その時にはお願いします。と伝え続けて今に至り、休業前と同じように働けて、育児との両立もなんとかできています。
Aさんが助けてくれることに甘え続けていたら、私はいつまで経っても復帰後のボヤッとした頭のままだったと思います。
優しいけれど非常に残酷ではないでしょうか。
これはちょっと嫌味になってしまうかもしれませんが、私がいつまで経っても復帰後自立できなかったとしても、Aさんの「お世話してあげたい」欲は満たされるのかも知れませんね。
相手を尊重したいから、信じているから、あえて手を出さない
これは私が子育てを通して学んだことですが、
相手を尊重して信じているからこそ、自分が気づいてもあれこれ手出し口出しはしない。求められたら適切に助ける。
「助けてほしい」と他人を頼ることも、生きるためのスキルの一つだと思うのです。
子供の様子を見て、求められてもいないのに転ばぬ先の杖を用意することは、子供の成長を阻害し、子供の意思を踏み躙ることにもなりかねません。
※もちろん、安全面に配慮する、発達段階を見て必要な物をさりげなく事前に用意しておく、絶対にできないことは助ける、などは大人として親として当たり前にした上での話です。
この考え方は、こちらの本を読んだ上で実際に私が子供を観察していくうちに身につけた物です。
夫との関係も同様です。
夫が気づかないだろうから私がやるしかないんだと家事を先回りしてやることはいいことでしょうか。それをずっと苦なく続けられるなら死ぬまでやればいいと思うのですが、夫が気付いてくれないことに少しでも不満がある場合は、ちゃんと話したり、可視化したりした方が、今後の長い人生考えたときにいいことの方が多いなと感じます。
簡単な例で言うと「靴下丸めたまま洗濯機に入れられると困るので、やめてくれないかな」と頼むなど。靴下丸まってるのを直すのが好きで仕方ないなら黙って直し続ければ思いますが、なんで私がいつもこれやらなあかんの!?と思うなら徹底的に話し合うべきなのです。
目上の人にはたくさん気を利かせて良いと思っているけどどうなんだろう?
私が社会人として育ってきた環境は、とにかく目上の人にはいくらでも気を利かせよという文化でした。
自分がアラフォーになって感じるのですが、35歳くらいが大人として成長や体力、精神力のピークがあって、その後は衰えていくところを経験と知恵でカバーする部分がどうしても増えるなと思います。
年齢を重ねると体力も認知機能も衰えるのは事実だと思うので、それで追いつかない部分は若い人がカバーすればいいという価値観が私の中には根強くあります。
でもそれもどうなんでしょうか、と最近考えます。
年老いていく親にあれこれ気を回していたら「自分でできるからいいよ!」と言われたことを思い出します。
とはいえ「これやっておきました」「気が利くね!サンキュー」っていうのは当たり前に大事にしたいなと思ったり。これってどの部分をフォローするか?という問題に思いますが、まだ私の中でその解像度が低く、うまく表現できずにいます。
まとめ
これもうまく言えないのですが
完全にそれぞれが自立している、スキル的にも立場的にも完全に対等な仲間同士だったらいくらでも手助けしまくっていいと思っています。
そこにたどり着く過程では、あえて見守ることも重要ではないか?と言いたいのです。
- 求められたら全力で適切に手助けをする
- 求められない手助けは優しさと見せかけて、長い目で見たら残酷なこと
- 最終的には全力で自分のできることを自発的にしあう関係を目指している
これまでは盲目的に「自分ができることをどんな人相手でもやってあげよう」と思っていたけれど、手助けをする内容やタイミングが大事なんだと気付けたのかも知れません。