白湯でもどうぞ

2児の母さゆです。働き方改革・子育て・家事...私の話を聞いてもらえますか!?

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他人への憎悪は自分を映す鏡

春から短時間勤務で職場復帰した二児の母、さゆです。

私には一時期、他人への愚痴が止まらない時期がありました。今現在、職場で人間関係のことで考えることがありふと思い出したのです。

愚痴っている時って何か脳内で快楽物質でも出ているのかな?というくらい自分では止められなくなります。

ふと冷静になり、この状態やばくないか? なんでそのような状態になるのか私は?と、自分の行動や思考の進め方を冷静に観察した時に、考えたことを自戒を込めてお話しします。

他人への愚痴や憎悪が始まる段階を追ってみた

愚痴り始めてエスカレートすると、過去の出来事も記憶からかき集めて全て関連づけ、「この人はきっとこういう考え方をしているんだ。だからこうに違いないんだ」と、本当に都合よく材料を集めてきて仮説を立てたりします。

一番強いのは「ズルい」という気持ち

他人の行動が気になって愚痴りたくなってウズウズ...と来た時に自分を俯瞰してみると、
「私はこんな我慢してんのに、なんであの人は我慢せずに済んでるんだ!?」
という疑問がまず頭に浮かんでいることに気づきました。

私が今まで耐えてきたこと、諦めてきたこと、努力してなんとか克服してできるようになったことなどを、何も気にすることなく生活しているように「私には見える」人です。  
私としては当たり前だったことが、その人にとっては当たり前でない。その人は辛い思いをしなくても平気で生きているように「私には見える」。

こうなると、強く、
「不思議だ!!わからん。わからんものは恐ろしい」という気持ちが働きます。  

ずるいものは排除したくなる

理解を超えて恐ろしいものは、私にとっては脅威でしかありません。
今までの私の生き方を否定する要素になりうるからです。その存在を認めてしまうと、自分を保つことが難しくなる。とても惨めで恥ずかしい思いになる。恐ろしいです。だから排除したくなるし、認めたくなくなります。

しかし現実的にはきっと、「私がやってきた我慢や苦労」を突き詰めて考えてみると、実は私が自分の判断で勝手にしてきたもので、誰にも求められていなかったり、はたまた一昔前に求められてたもので今はもうすでに必要ないものだったりします。

始めは「なんでだろう」という小さな疑問だったはずなのに、「ズルい」から、排除対象へと変わっていきます。

決めつけ

そうなると次に、決めつけの段階に入ります。  

あの人はきっとこうだからああなんだ。という関連づけです。
過去の些細で断片的な出来事、私が見ようとして見ている一面だけをかき集めて、結論ありきで「ほら、裏付けできた」とどんどん決めつけていきます。

他人のことを決めつけると、まるでその人の行動パターンが理解できたように思え、今後もどんな行動をしてきて私をイラつかせるのか?を予測できるかのような錯覚に陥ります。するとちょっと安心できてしまうのです。
その予想通りの行動をその人がとると、ほれ見たことか!!と錯覚をどんどん強化させ、その人本来の姿からかけ離れたモンスターが、自分の中に出来上がります。  
そのモンスターと無駄に戦う日々の始まりです。

ターゲットになっていたのは夫

私にとっての身近な例が、子どもが産まれた直後の夫です。  
私はこんなに我慢して育児や家事をしているのに、どうも夫はそこまでストレスを感じずに生きているように見える。

ええ?なんで?どうして平気で生きられるの?

から、
「きっと育児に対する責任感がないんだ」
「私がこんなに苦労しているのをきっとわかっていないんだ」
という憶測でどんどん決めつけて、ムカつくふざけんな。に変化していきます。

世の中に、男親の方が自覚が足りない。母親の方が大変。という風潮が当初は流れ始めた頃だったので、正義感を隠れ蓑に夫をひたすら悪者にしていました。
いや実際に夫には責任感がなかったのかも知れませんが、現実以上に「そうだ」と決めつけていたなと思います。

自分を映す鏡

この「私の脳内に勝手に出来上がるモンスター」の人格や行動パターンは他でもなく、「自分自身の鏡」だと思っています。

以前から私は、家族ですらわけわからんのに他人のことなんてひとつもわからん。それにみんな毎日考えも行動も変わっていくので、人に対して「この人はこういう性格」とラベリングする概念そのものが間違っていると、頭では思っています。

子供を見ているとよくわかります。毎日育っているので、毎日のように昨日とは全く違う一面を見せてくれます。
大人だって「さっきはああ言ったけどやっぱり考えが変わったわ」ということばかりではないでしょうか。

それなのに、どうして他人に対して「どうせあの人はああするに違いない」と予測できるのでしょうか。

「こういう性格ならば、これまでこういった行動実績があるならば、どうせ次はこうするだろう」という、この想定そのものが、自分自身の経験から導き出しているのかもしれない、と思えたのです。  

自分が以前にそういう行動をとってしまった経験があった。  
あるいはそういう思考パターンを以前持っていたことがあった。  

決めつけが起こる理由は「自分の経験に基づいて決めつける」、これ以外に考えられないなと思ったのです。  
だってわけわからん他人の思考・行動パターンを理解して予測するなんて、絶対に不可能なのですから。

たくさんの人を見てきたから私にはわかる?

確かに、人の行動パターンや思考パターンは大まかに分類することができるかもしれません。  

ですが、「以前にも似たような人に会ったことがある。ああ言うタイプはこうするに違いない」と分類することも非常に浅はかだと思っています。  
似ているように見えるのは、たった一面だけ、しかも自分が見た一面だけです。  
しかも、自分の記憶なんて簡単に歪めることができます。  

どうすればいいのかは書籍『反応しない練習』にもあるように、他人とは「毎日初めて会ったかのように接すればいい」のだと思います。
これまで嫌なことがあった。不思議に思えることがあった。でも、それはその時その環境下で起こった出来事で、この先も繰り返し起こるとは決まっていないし、決めつけた途端に新たな一面を見つけるチャンスを逃してしまうのです。
かなり訓練が必要に思いますが、まずは自分が他人を決めつけていると気付けたので諦めずに訓練していきたいと思います。

まとめ

  • 他人へ向けられる憎悪の根源は「ずるい」という気持ち
  • 人は変化する。決めつけは意味がない
  • 毎日初めて会ったような感覚で他人と接することができるよう訓練する