白湯でもどうぞ

2児の母さゆです。働き方改革・子育て・家事...私の話を聞いてもらえますか!?

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他人に対してなんで?とイライラし、正論振りかざして気持ちよくなったら読む

手の親指が疲れています、さゆです。

ベビーカーのパーツの着脱だとか抱っこ紐の装着だとか、食品パッケージの開封だとか洗濯だとか、とにかく手の親指を使う作業が多くて両手の親指が腱鞘炎のような状態になっています。

そうした育児家事に加え、スマホを操作するのも親指必須になってくる場合が多いので本当にしんどいです。

なるべくパソコンやタブレットで作業するようにしていますがタイピング自体も辛いので、こちらのブログは音声入力で執筆してみてます。

辛さはその人にしか分からない

辛いのが、洗濯バサミを開くこと。  
大きい洗濯物だったらひっかけて干せばいいんですけど、小さい靴下とかミニタオルとかはどうしても洗濯バサミがないと飛んでってしまいます。   
毎日必ず、干すときと取り込むとき洗濯バサミを開閉しなければいけないため、かなりしんどいです。もうそのためだけにコインランドリーに行こうかとも考えています。

そんなのコストがかかるのでできませんけどね。。。

育児における試練って、まさにこれだと思います。

ゆとりのある立場から一場面を切り取れば「その程度のこと?」と言えてしまう

大人になって色々なスキルやある程度の力を獲得した私たちは、大人同士の生活、あるいは一人暮らしであれば全く問題なく暮らすことができると思います。  
また、普段からゆとりがある生活をしていたら、短時間だけ無理をするということも可能だと思います。

そういう立場からみると、育児や家事の一部分を切り取って見た時に、それくらい頑張ればできるだろうっていう言葉を簡単に吐いてしまいます。私がかつてそうだったからです。

けれども私たちが切り取って見てる他人の様子なんてその一瞬一部に過ぎず、その人は四六時中負荷の強い作業に追われてるかもしれないと想像してみることが大事かなと思います。

逆に、ゆったり過ごしている人を見かけた時にその人がずっとそんな風に過ごしてるのではなくて、もしかしたらその瞬間以外はものすごく負荷のかかる仕事を担っているのかもしれないと考えることも重要です。

無意識での他者への評価が、苛立ちにつながっているかもしれない

これって確か、7つの習慣に同じような話が出てきたかなと思います。

ほんと人間って簡単に自分の環境に慣れてしまうし、その物差しでしか人を見られなくなりがちだなと思います。

そして何より、自分が持ってる自慢の物差しで他人を見てしまう理由としては、そもそも他人のことを評価してやろう!!!この俺様が!!と思ってかかってる部分があると思います。

まさに7つの習慣に出てきたような話になりますが、電車の中で大泣きしてる赤ちゃんがいて、その赤ちゃんをあやしもせずにぼーっとしてる親が側にいるとしたらどう思いますかね?

「あっ、赤ちゃんが泣いてるな」って思うだけでよくないですか。

「私だったらこうするのになぜあの人はしないんだ」は想像力の欠如

もしかしたらうるさいなぁ〜もう!と思うかもしれないですけど、うるさいなって思うことは当然のことだと思います。でも、赤ちゃんが泣いててうるさいな!!それだけですよね。

なんでその先まで考えをぐちゃぐちゃ巡らせて、「親は何してるんだ」という所まで行ってしまうのでしょうか。「親ならばこうすべきだ」といった自分の中の理想像をもとに、それと違う現実にいる他人に対して批判をするのでしょうか。  
さらに、自分だったら絶対に赤ちゃんをあやしてあげるのに!自分の赤ちゃんだったら大切に決まってるから、親として泣いている赤ちゃんを放っておくなんてありえない!!とまで思う場合もあるかもしれないですね。

だけど、泣いてる赤ちゃんに対してなぜ親が何もしないのか?...その理由なんてパッとその瞬間を見ただけでは分かりっこないのです。

赤ちゃんが泣いてるなら必死にあやすのが最善?

実際に今赤ちゃんを育ててる身として言えることは、赤ちゃんは寝る前に大声で泣く場合があります。この場合、私たち大人が「眠いよ〜!」と言う代わりに泣いてるだけなんです。  
この時、これは私も実際に赤ちゃんと触れ合って知ったことなんですけれども、抱っこして話しかけたりとか親が目を合わせるだけで覚醒状態になってしまってますます眠れなくなってこじらせる場合があります。これって冷静に考えると大人でもそうですよね。寝よっかな〜とうとうとしてるところに「眠いの?大丈夫?」と話しかけられたりとか、体に触られたりしたら、目が覚めちゃいますよね。で、せっかくウトウトしかけてたのに!!と怒りませんかね?

だから「このまま眠ってもらった方がこの先泣き声で皆さんに迷惑かけずに済むから、このまま寝てくれ〜〜」と願いながら親が何もせずじっとしてる可能性というのは大きいです。

他人を批判的に見るのは、自分の思い通りに動け。というメッセージ

それでも親ならあやせ!なんか動け!と思ってしまう場合、こういうメッセージを持っているのではないでしょうか。

私があなたのことを見た結果、私の価値観に合わない行動をあなたがしていると思います。だから私の価値観に合う行動をしなさい。赤ちゃんが眠いとかあなたが疲れてるとか私には想像が全くできないので、私の理想の親像を演じなさい。私の機嫌を取ってください。

そういうことですよね。

で、私は今育児をしているからこんなふうに言いますけれど、当然育児以外のことに関して想像が及ばないのは私も同じです。

例えば出先で夫が「お腹が痛いトイレに行きたい」と急に言うことがあります。

私は毎朝快便のため、急にお腹が痛くなってトイレに行きたくなることなんてめったにない。だから全くこれが理解できないのです。何でこのタイミングでトイレに行きたがるんだ、我慢ぐらいできるだろうっていうふうに最初は思っていました。

でも、その人が「辛いよう今すぐこうしたいよ」って言ってるんだったらそうなんです。それが全てなんです。

辛さはその人にしか分からない。比べられない。

辛さなんて比較できないし、数値化もできないし、環境にもよるし、その人が適応してる状態にもよる。だから「常に正しい行動」なんて存在しないし、他人を評価する目で見る必要もどこにもないんです。その人の上司じゃないんだから。

もし、その起きてる事象に対してイライラしてどうしようもないんだったら、自分がそこからそっと離れるか、何か助けることができますかと申し出るしかないんじゃないでしょうかね。

そして特定の属性にある人のことに対してイライラしてしまうのであれば、その人たちがどうしてそういう行動に出るのか、そういう状態に陥るのか、ということを知ろうとする、調べる、という行動に出るべきだと思います。
そうすればきっとイライラはなくなります。

イライラを無駄に増幅させると見えない敵と戦うことになる

ここでやらないほうがいいこととしては、 SNS などで自分と同じイライラを持つ人と建設的に解決策を求めたり、愚痴を吐き捨ててすっきりして明日からも頑張るためではなくて、より自分の考えを強化して攻撃性を高めるために共感し合うことだと思います。  
SNS だと100人いるうちの1人ぐらいしか持ってないような意見を持ってる人たちも出会ってしまうことができます。  
なので現実世界から離れたような価値観も簡単に正当化し合うことができます。  
共感して正当化し合うとどんどん自分の意見は正しいんだという錯覚に陥ります。でもいざ現実世界に出てみるとそんなこと考えてる人はあなたの身近には一人もいないよというような状態もありえるんです。  
それでも自分が正しいと言い張る勇気はありますか。人が暮らしているのは現実世界です 。SNS では確かにどこかに実存している人と繋がって共感しあってるかもしれませんが、朝起きて顔を洗ってご飯を食べて外に出て会う人たちの中にその人はいないのです。  

 

まとめ

  • 人は環境適応能力があって今暮らしてる環境に適応したものの見方をしがち
  • 他人が今どういう環境に置かれてるかなんて咄嗟に想像することは難しい。だから他人の行動に対してこちらが評価する必要なんてない
  • どうしても他人の行動を評価したくて我慢できないのであれば、その他人がどういう環境に置かれているのか知ろうとする、調べる、話を聞く
  • 辛さは比べることができない

将来自分が老害にならないために残したいと思います。
私自身が今まさに子育てを経験していますけれども残念ながら「喉元過ぎれば熱さを忘れる」。いつ子育てしている方を批判する側に転げ落ちるかわかりません。経験者ほど初心者に厳しい傾向がありますよね残念ながら。

このブログに記録してなるべく経験した時の気持ちを忘れないように工夫しているわけですけれども、それでもおそらく子育てを一段落して大人しかいない環境に慣れきった年をとった私は、きっと偉そうに他人に対してジャッジしようとする日が来ると、そんな予感がしています。

そうなったらただの老害でやばいので、そんな時にこのブログを見て自分を省みてください未来の私。